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永山拓美の人生という旅の世界へようこそ!

 私は子供の頃から幾つもの夢を追い駆け、そのために何を成すべきかを模索しながら、進むべき道をすべて自分の意思で決めて歩いてきた。私は私の人生を、すべて私の責任において生きてきたのである。  高校を卒業した春、進学のため鹿児島から東京へ向かう前夜、母から私への「送る言葉」は、「人は、真っ直ぐに生きなければならない。」だった。私は、その言葉の意味を判らないまま多くの歳月を生きてきた。しかし私は、その言葉を決して忘れることはなかった。  上京後の私は、学生時代、サラリーマン時代、フリー(自営業)時代、結婚と離婚と再婚、そして多くの旅に加え、ハンググライダー、弘前ねぷた祭りの団体「必殺ねぷた人」参加などを通して、実に様々な人との出会いから、実に多くの「体験」をして学ぶ事になった。  その「体験」は、母からの「送る言葉」の意味を解き明かす基になり、2008年4月TLC匠の活動開始が「答え」になった。  私の体験を正確に述べるならば、不可思議な人々とのご縁と、不可思議な体験だらけであったが、それは活動を続ける中で検証し「あたりまえ」という確証を持つまでになった。  父は言葉では無く、「自らの生き様」を見せる事(ヒント)から、私を「答え」へと導いてくれた。また、「政和・マサカズ」という父の名は、まさしく「まさか」だらけの私の人生を示していた。  私が「答え」にたどり着けたのは、母の「言葉」を忘れず、父の「生き様」を見逃さず、判った事を実践しながら繰り返し検証してきたからである。 1961年4月、鹿児島県出水市に農家の長男として生まれる。 出水市は、薩摩藩・島津家発祥の地でもあった事から、幼少の頃より歴史の話には関心を持つようになり、特に戦国時代・江戸幕末期の話が大好きだった。何と言っても、明治維新からまだ100年も経たない頃だから、藩政時代から継承されていた「郷中教育」は、私の少年時代にもしっかり受け継がれ、地域ぐるみによるリーダー教育として残っていた。 性格は、泣き虫で甘えん坊。恥ずかしがりの癖に目立ちたがり屋でもあった。ある意味「自然児」なのだが、家族の目には「変りもの」として映っていた。大雨のあとの用水路に落ち、数百メートル流され救助されるが、水を怖がるようになった。  小・中学生の頃は絵を描くのと歌うのが好きで、数少ない得意分野となった。赤塚不二夫原作・「天才バカボン」のバカボンパパのキャラがお気に入りで、私の絵を見た先生が「たくべぇの自画像だな」と言った事がある。ニックネームは、仲よしの友人に、「ふくべぇ」と付けたため、私は「たくべぇ」となる。友達には恵まれたが、私の欠点は誰もが知る「短気」だった。良くとれば、「自分の思いを素直に表現するのが早い」子供だったのである。  1974年5月、自宅3棟が原因不明の火事により全焼。(後に放火した人=故人が自白)翌日、四人の友人らが、町内をリヤカーで廻り米を4俵集めてくれた。(彼らの行動力に驚き、その気持ちに感謝した。未だに忘れない。)当時の私には、抽象的な映像の中にシンボリティックな「予知夢・デジャブ」を見る現象がたびたび起きていた。火事の次は、敷地内が水浸しとなり、母が不気味がるようになった。(私の予知夢は、期日を特定できないものだった。)  中学時代は、サッカー部に在籍。好きな戦国武将は「真田幸村」と「山中鹿之介」だった。登校時にふと、前夜にテレビで見た苦しみの中で神に祈り続ける外国の老婆の姿を思い出し、次の瞬間「神と悪魔って同一人物」という答えになり、その出来事に驚くも封印した。 中学2年の時、テレビの海外取材番組を見て、将来の仕事としてTVカメラマンを志し、その意思表示は同級生らにインパクトを与えた。まだ、どんな仕事を目指すのかを持たない者がほとんどだったのである。 1977年4月、県立・出水工業高校の電気科に入学。 電気科を選んだのは、中学時代に理科実験の際、余りにも電気が苦手だったため、TVカメラマンを目指すのに、電気が苦手では話にならないと考えたのだ。電気工事士の資格をとる。 部活は美術部に在籍する。二科会の中島千之氏に学び油絵にはまる。高3の時、県の高美展において、奨励賞を受ける。師・中島千之からは、絵だけでなく「一期一会」を学び、現在でも親交を続ける間柄である。 実業系の高校のため、殆どの生徒が卒業後は就職であった。求人票という「紙一枚」に書かれている企業ブランドと地域と給与や待遇などで、同級生らが就職先を決める事に「違和感」を覚え、放送技術専門学校への進学を決める。 私が選んだ進路は、経済的に余裕のなかった実家の状況を見れば一目瞭然であった。学費と住居・生活費を含めたすべての費用は、自分でやることが進学の条件であった。私が選んだ方法は、「新聞奨学金制度」による2年間の住み込み契約であった。  1980年3月、高校卒業した数日後には故郷を発った。出水駅のホームには大勢の中学・高校時代からの友人たちが見送りに駆けつけ、私は公例の「応援歌」と「胴上げ」による送り出しの儀式を受けさせて貰った。私の世代にとってこの見送りは、「人生の宝」である。 ブルートレインにて東京へと向かう車中には、私と同様に始めて親元を離れ大都会を目指す「お仲間」が居り、皆それぞれのレベルで「希望」よりも大きな「不安」を抱いていた。私をずっしりと覆っていた「灰色一色の不安」をようやく振り払えたのは、「多摩川」を越えたのちである。  東京・中野区の新聞販売店に入所して間もない頃、私の決断に感応するものを覚えた高校時代の友人の一人から、五千円が同封された手紙が届いた。予想もしない友からの激励に熱き想いを感じたまま電話ボックスへと走った。懐かしい友の言葉は、「クラスにあれだけ大勢いる中で、お前のように決断出来たヤツはいない。初任給が出たら、拓美に送金すると決めていた。がんばれ!」だった。電話ボックスを後にして新聞店に向かう私は、ただただ「感謝の涙」を流しながら歩いたことを憶えている。 先輩から担当区域の引き継ぎを終え、初めて固定客の方々に対して挨拶まわりをした時、私の郷里と関わりのあるお宅があった。「九州のどこ?」「鹿児島のどこ?」あたりまではまだ特に気にならない。「出水のどこ?」「野田町の上名?それとも下名?」までエスカレートしたときは、流石に驚きを隠せなかった。世の中狭いどころではなく、そのお宅の大旦那の実家は、私の実家の菩提寺のお隣りで、その大旦那は私の高校時代の保証人であった大伯父のことを「先生」と呼ぶ間柄であった。上京早々に「その確率は?」が始まった。  住み込み生活は、少ない給料の半分を学費に充て続けるため、私の人生で最も「懐の厳しい時代」だった。そんな中でも、学生時代の楽しみは、入場料の安い「名画座」で映画を見ることと、国内外の様々な絵画を生で見られる絵画展に行くことだった。 芸大学長を二度も務めた日本画の故平山郁夫氏(当時49歳)と会った際に「励ましの言葉」を貰った。彼の優しい顔と「真っ直ぐな目」は、今でも鮮明に覚えている。  300軒以上のお客を通し、世の中の「人の情け」の有難さを幾度も体験する一方では、「裏切り」や「理不尽さ」を垣間見る。夜明け前の早朝に見た「夜逃げの現場」を含め、様々な人々の驚くべき「人生の浮き沈み」を目の当たりにすることもあった。 中野区の城山は、大学生や予備校生が多く住んでいる地域でもあった。恋愛相手となる予備校生だった女性に告白したのは、私が卒業を間近となった頃である。この岩手県出身の女性との出逢いは3年半ほどの交際にて幕を降ろしたが、後の人生に於いて16年に及ぶ私の「東北への旅」へと繋がった。 卒業に伴う退所のとき、店長から「店を継ぐ気はないか?」と誘われたがお断りした。「いざという時は、新聞屋で食べていける」という思いの反面、「二度とこの仕事には就くまい」と強く思った。私の「やりたい仕事は、別にある」という思いは譲れなかったからである。 TVカメラマンを目指し東放学園専門学校にて放送技術(カメラ・音響・照明)を学び、在学中、テレビ東京にて半年間、スタジオのカメラアシスタントの経験を積むが、2年生の秋から就職活動が始まる。放送局どころか放送局から独立した関連会社のハードルは厳しく、カメラマンへの狭き現実の前に私は自ら想いを折ることになった。そんな頃、国立劇場で歌舞伎を見て舞台の素晴らしさを知り、進むべき道をテレビから舞台の世界へと転換した。 学校には、舞台美術の関連会社への窓はなかったが、舞台照明への窓は開かれていた。私は、授業にて照明技術も学んだとはいえ、「シロウト同然」であった。しかし、講師から学生時代の友人が経営する舞台照明会社の紹介があり、面接にて「内定」となった。クラス内を見渡せば、半数以上がまだ内定を貰えず、就職活動に走り回る厳しい頃だった。在学中の同級生に、現在も多くの音楽シーンで活躍を続け、1999年から2000年まで「ラルク・アン・シエル」の証明デザイナーを務めた原秀和がいる。  卒業後、東京・原宿に事務所を構えたばかりの舞台照明会社に入社。(同事務所のオーナーは、元新国劇の大山克巳(旧勝巳)氏。武田鉄矢の海援隊が所属する音楽事務所と入れ替わりは、社長同士のご縁である) 証明オペレーターとして、一年半勤める。主に、松山バレエ団(清水哲太郎、森下洋子ら一流ダンサーに加え、アドルフ・ヌレエフの現役としての踊りを見る)。他に、アルビンエイリー、ミラン・スラディック、トロカデロなど海外の一流の舞台ツアーを体験する。また、派遣オペレーターとして和田アキ子や、当時アイドル全盛期の小泉今日子、田原俊彦、近藤真彦、シブがき隊のコンサートの他、NHKの公開番組「この人ショー」にて、仲代達矢、故淀川長治ら、多くの収録に参加。当時の私が裏方の視点から見た彼らの楽しいエピソード話は、後に幾つもの新たな出逢いの「ご縁」を齎し、近年でも2010年夏の北海道在住の友人に紹介されたライブハウス「銭バー」のオーナーはミュージシャンとして東京で活動していた頃、私が参加した近藤真彦のバックバンドとしてステージに立っていた。 「永山君を見ていると、世を忍ぶ仮の姿って感じがするのよね」とは、戦時中の幼少期を鹿児島で過ごした社長夫人が私に語った言葉である。当時の私にとっては、不可解な言葉であったが、四半世紀を経たのちの検証により、私の人生の答えに結びつく言葉となった。 入社して二年目の夏の終わり、私の舞台美術(大道具)への関心を見抜いた社長が言い放った下記の言葉が切っ掛けとなり、私の仕事に転機が訪れた。(実質は、解雇通達である)「自分が、本当は何をしたいのか。本心を誤魔化すな。さもないと40歳になった時に必ず後悔すると思え! 美術の仕事が見つかるまで会社にいていいから、とっとと探してこい。」 私は、照明オペレータの技術をマスターするペースが遅いだけでなく、様々な失敗を起こし始めていた。最大の欠点は、自分勝手な「思い込み」が強いことだった。送別会の席にて、社内でナンバー2のプランナーからの言葉は、「君は、大器晩成。10年辛抱すれば大成すると私は思っていた」であった。その意味は、10年後に理解した。映像技術の知識と舞台照明の経験は、イベント美術の仕事に携わる中で活かされたのである。その翌月、私は転職した。 1983年9月、東京都足立区の舞台・テレビ・イベント美術の会社に入社。社内は「一匹狼」的個性派揃いの寄せ集め集団であり、「八方美人になるな!」と教わる。 一年先輩の社員の中の一人が岩手出身者がおり、会話が進むうちに私の交際相手の親族だと判明した。その確率に、一時社内は「世の中狭いって云うけど・・・」状態になった。 入社した年より2年連続、NHK「紅白歌合戦」にて、大道具係りの仕事をする。美術セットの解体作業から仕事を覚え、木工造作から現場作業の職人として、下積みを経て現場チーフになり、1987年12月より営業職になる。  24歳から自転車による通勤にはまり、通勤時間にロードレースのチームと張り合って走り、トライアスロンのチームから誘いを受けたが断る。( 未だに水泳が苦手なのである )この年の夏に自転車の一人旅に出る。世田谷・千歳烏山を出発し、山梨、安曇野、上田、軽井沢、群馬5日間500キロの旅だった。旅の一日目の夕暮れ時、転がり込んだ山梨の民宿で見たテレビニュースは、あの「尾巣鷹山・日航機墜落事故」だった。この旅にて、中学時代好きだった戦国武将・真田幸村ゆかりの地を踏み、「上田の合戦」に思いを馳せた。 … 続きを読む

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