永山拓美の人生という旅の世界へようこそ!

 私は子供の頃から幾つもの夢を追い駆け、そのために何を成すべきかを模索しながら、進むべき道をすべて自分の意思で決めて歩いてきた。私は私の人生を、すべて私の責任において生きてきたのである。 

高校を卒業した春、進学のため鹿児島から東京へ向かう前夜、母から私への「送る言葉」は、「人は、真っ直ぐに生きなければならない。」だった。私は、その言葉の意味を判らないまま多くの歳月を生きてきた。しかし私は、その言葉を決して忘れることはなかった。 

上京後の私は、学生時代、サラリーマン時代、フリー(自営業)時代、結婚と離婚と再婚、そして多くの旅に加え、ハンググライダー、弘前ねぷた祭りの団体「必殺ねぷた人」参加などを通して、実に様々な人との出会いから、実に多くの「体験」をして学ぶ事になった。 

その「体験」は、母からの「送る言葉」の意味を解き明かす基になり、2008年4月TLC匠の活動開始が「答え」になった。 

私の体験を正確に述べるならば、不可思議な人々とのご縁と、不可思議な体験だらけであったが、それは活動を続ける中で検証し「あたりまえ」という確証を持つまでになった。 

父は言葉では無く、「自らの生き様」を見せる事(ヒント)から、私を「答え」へと導いてくれた。また、「政和・マサカズ」という父の名は、まさしく「まさか」だらけの私の人生を示していた。 

私が「答え」にたどり着けたのは、母の「言葉」を忘れず、父の「生き様」を見逃さず、判った事を実践しながら繰り返し検証してきたからである。

1961年4月、鹿児島県出水市に農家の長男として生まれる。

出水市は、薩摩藩・島津家発祥の地でもあった事から、幼少の頃より歴史の話には関心を持つようになり、特に戦国時代・江戸幕末期の話が大好きだった。何と言っても、明治維新からまだ100年も経たない頃だから、藩政時代から継承されていた「郷中教育」は、私の少年時代にもしっかり受け継がれ、地域ぐるみによるリーダー教育として残っていた。

性格は、泣き虫で甘えん坊。恥ずかしがりの癖に目立ちたがり屋でもあった。ある意味「自然児」なのだが、家族の目には「変りもの」として映っていた。大雨のあとの用水路に落ち、数百メートル流され救助されるが、水を怖がるようになった。 

小・中学生の頃は絵を描くのと歌うのが好きで、数少ない得意分野となった。赤塚不二夫原作・「天才バカボン」のバカボンパパのキャラがお気に入りで、私の絵を見た先生が「たくべぇの自画像だな」と言った事がある。ニックネームは、仲よしの友人に、「ふくべぇ」と付けたため、私は「たくべぇ」となる。友達には恵まれたが、私の欠点は誰もが知る「短気」だった。良くとれば、「自分の思いを素直に表現するのが早い」子供だったのである。 

1974年5月、自宅3棟が原因不明の火事により全焼。(後に放火した人=故人が自白)翌日、四人の友人らが、町内をリヤカーで廻り米を4俵集めてくれた。(彼らの行動力に驚き、その気持ちに感謝した。未だに忘れない。)当時の私には、抽象的な映像の中にシンボリティックな「予知夢・デジャブ」を見る現象がたびたび起きていた。火事の次は、敷地内が水浸しとなり、母が不気味がるようになった。(私の予知夢は、期日を特定できないものだった。)

 中学時代は、サッカー部に在籍。好きな戦国武将は「真田幸村」と「山中鹿之介」だった。登校時にふと、前夜にテレビで見た苦しみの中で神に祈り続ける外国の老婆の姿を思い出し、次の瞬間「神と悪魔って同一人物」という答えになり、その出来事に驚くも封印した。

中学2年の時、テレビの海外取材番組を見て、将来の仕事としてTVカメラマンを志し、その意思表示は同級生らにインパクトを与えた。まだ、どんな仕事を目指すのかを持たない者がほとんどだったのである。

1977年4月、県立・出水工業高校の電気科に入学。

電気科を選んだのは、中学時代に理科実験の際、余りにも電気が苦手だったため、TVカメラマンを目指すのに、電気が苦手では話にならないと考えたのだ。電気工事士の資格をとる。

部活は美術部に在籍する。二科会の中島千之氏に学び油絵にはまる。高3の時、県の高美展において、奨励賞を受ける。師・中島千之からは、絵だけでなく「一期一会」を学び、現在でも親交を続ける間柄である。

実業系の高校のため、殆どの生徒が卒業後は就職であった。求人票という「紙一枚」に書かれている企業ブランドと地域と給与や待遇などで、同級生らが就職先を決める事に「違和感」を覚え、放送技術専門学校への進学を決める。

私が選んだ進路は、経済的に余裕のなかった実家の状況を見れば一目瞭然であった。学費と住居・生活費を含めたすべての費用は、自分でやることが進学の条件であった。私が選んだ方法は、「新聞奨学金制度」による2年間の住み込み契約であった。

 1980年3月、高校卒業した数日後には故郷を発った。出水駅のホームには大勢の中学・高校時代からの友人たちが見送りに駆けつけ、私は公例の「応援歌」と「胴上げ」による送り出しの儀式を受けさせて貰った。私の世代にとってこの見送りは、「人生の宝」である。

ブルートレインにて東京へと向かう車中には、私と同様に始めて親元を離れ大都会を目指す「お仲間」が居り、皆それぞれのレベルで「希望」よりも大きな「不安」を抱いていた。私をずっしりと覆っていた「灰色一色の不安」をようやく振り払えたのは、「多摩川」を越えたのちである。

 東京・中野区の新聞販売店に入所して間もない頃、私の決断に感応するものを覚えた高校時代の友人の一人から、五千円が同封された手紙が届いた。予想もしない友からの激励に熱き想いを感じたまま電話ボックスへと走った。懐かしい友の言葉は、「クラスにあれだけ大勢いる中で、お前のように決断出来たヤツはいない。初任給が出たら、拓美に送金すると決めていた。がんばれ!」だった。電話ボックスを後にして新聞店に向かう私は、ただただ「感謝の涙」を流しながら歩いたことを憶えている。

先輩から担当区域の引き継ぎを終え、初めて固定客の方々に対して挨拶まわりをした時、私の郷里と関わりのあるお宅があった。「九州のどこ?」「鹿児島のどこ?」あたりまではまだ特に気にならない。「出水のどこ?」「野田町の上名?それとも下名?」までエスカレートしたときは、流石に驚きを隠せなかった。世の中狭いどころではなく、そのお宅の大旦那の実家は、私の実家の菩提寺のお隣りで、その大旦那は私の高校時代の保証人であった大伯父のことを「先生」と呼ぶ間柄であった。上京早々に「その確率は?」が始まった。

 住み込み生活は、少ない給料の半分を学費に充て続けるため、私の人生で最も「懐の厳しい時代」だった。そんな中でも、学生時代の楽しみは、入場料の安い「名画座」で映画を見ることと、国内外の様々な絵画を生で見られる絵画展に行くことだった。

芸大学長を二度も務めた日本画の故平山郁夫氏(当時49歳)と会った際に「励ましの言葉」を貰った。彼の優しい顔と「真っ直ぐな目」は、今でも鮮明に覚えている。

 300軒以上のお客を通し、世の中の「人の情け」の有難さを幾度も体験する一方では、「裏切り」や「理不尽さ」を垣間見る。夜明け前の早朝に見た「夜逃げの現場」を含め、様々な人々の驚くべき「人生の浮き沈み」を目の当たりにすることもあった。

中野区の城山は、大学生や予備校生が多く住んでいる地域でもあった。恋愛相手となる予備校生だった女性に告白したのは、私が卒業を間近となった頃である。この岩手県出身の女性との出逢いは3年半ほどの交際にて幕を降ろしたが、後の人生に於いて16年に及ぶ私の「東北への旅」へと繋がった。

卒業に伴う退所のとき、店長から「店を継ぐ気はないか?」と誘われたがお断りした。「いざという時は、新聞屋で食べていける」という思いの反面、「二度とこの仕事には就くまい」と強く思った。私の「やりたい仕事は、別にある」という思いは譲れなかったからである。

TVカメラマンを目指し東放学園専門学校にて放送技術(カメラ・音響・照明)を学び、在学中、テレビ東京にて半年間、スタジオのカメラアシスタントの経験を積むが、2年生の秋から就職活動が始まる。放送局どころか放送局から独立した関連会社のハードルは厳しく、カメラマンへの狭き現実の前に私は自ら想いを折ることになった。そんな頃、国立劇場で歌舞伎を見て舞台の素晴らしさを知り、進むべき道をテレビから舞台の世界へと転換した。

学校には、舞台美術の関連会社への窓はなかったが、舞台照明への窓は開かれていた。私は、授業にて照明技術も学んだとはいえ、「シロウト同然」であった。しかし、講師から学生時代の友人が経営する舞台照明会社の紹介があり、面接にて「内定」となった。クラス内を見渡せば、半数以上がまだ内定を貰えず、就職活動に走り回る厳しい頃だった。在学中の同級生に、現在も多くの音楽シーンで活躍を続け、1999年から2000年まで「ラルク・アン・シエル」の証明デザイナーを務めた原秀和がいる。

 卒業後、東京・原宿に事務所を構えたばかりの舞台照明会社に入社。(同事務所のオーナーは、元新国劇の大山克巳(旧勝巳)氏。武田鉄矢の海援隊が所属する音楽事務所と入れ替わりは、社長同士のご縁である) 証明オペレーターとして、一年半勤める。主に、松山バレエ団(清水哲太郎、森下洋子ら一流ダンサーに加え、アドルフ・ヌレエフの現役としての踊りを見る)。他に、アルビンエイリー、ミラン・スラディック、トロカデロなど海外の一流の舞台ツアーを体験する。また、派遣オペレーターとして和田アキ子や、当時アイドル全盛期の小泉今日子、田原俊彦、近藤真彦、シブがき隊のコンサートの他、NHKの公開番組「この人ショー」にて、仲代達矢、故淀川長治ら、多くの収録に参加。当時の私が裏方の視点から見た彼らの楽しいエピソード話は、後に幾つもの新たな出逢いの「ご縁」を齎し、近年でも2010年夏の北海道在住の友人に紹介されたライブハウス「銭バー」のオーナーはミュージシャンとして東京で活動していた頃、私が参加した近藤真彦のバックバンドとしてステージに立っていた。

「永山君を見ていると、世を忍ぶ仮の姿って感じがするのよね」とは、戦時中の幼少期を鹿児島で過ごした社長夫人が私に語った言葉である。当時の私にとっては、不可解な言葉であったが、四半世紀を経たのちの検証により、私の人生の答えに結びつく言葉となった。

入社して二年目の夏の終わり、私の舞台美術(大道具)への関心を見抜いた社長が言い放った下記の言葉が切っ掛けとなり、私の仕事に転機が訪れた。(実質は、解雇通達である)「自分が、本当は何をしたいのか。本心を誤魔化すな。さもないと40歳になった時に必ず後悔すると思え! 美術の仕事が見つかるまで会社にいていいから、とっとと探してこい。」

私は、照明オペレータの技術をマスターするペースが遅いだけでなく、様々な失敗を起こし始めていた。最大の欠点は、自分勝手な「思い込み」が強いことだった。送別会の席にて、社内でナンバー2のプランナーからの言葉は、「君は、大器晩成。10年辛抱すれば大成すると私は思っていた」であった。その意味は、10年後に理解した。映像技術の知識と舞台照明の経験は、イベント美術の仕事に携わる中で活かされたのである。その翌月、私は転職した。

1983年9月、東京都足立区の舞台・テレビ・イベント美術の会社に入社。社内は「一匹狼」的個性派揃いの寄せ集め集団であり、「八方美人になるな!」と教わる。

一年先輩の社員の中の一人が岩手出身者がおり、会話が進むうちに私の交際相手の親族だと判明した。その確率に、一時社内は「世の中狭いって云うけど・・・」状態になった。

入社した年より2年連続、NHK「紅白歌合戦」にて、大道具係りの仕事をする。美術セットの解体作業から仕事を覚え、木工造作から現場作業の職人として、下積みを経て現場チーフになり、1987年12月より営業職になる。 

24歳から自転車による通勤にはまり、通勤時間にロードレースのチームと張り合って走り、トライアスロンのチームから誘いを受けたが断る。( 未だに水泳が苦手なのである )この年の夏に自転車の一人旅に出る。世田谷・千歳烏山を出発し、山梨、安曇野、上田、軽井沢、群馬5日間500キロの旅だった。旅の一日目の夕暮れ時、転がり込んだ山梨の民宿で見たテレビニュースは、あの「尾巣鷹山・日航機墜落事故」だった。この旅にて、中学時代好きだった戦国武将・真田幸村ゆかりの地を踏み、「上田の合戦」に思いを馳せた。

 25歳の夏、自転車の旅を断念。仕事場でのトラック運転が必須と思い、栃木県の那須合宿教習所で学び、運転免許を取得。路上コースを覚えるため、自転車で走り回った。

26歳の夏、自転車にて、東京から日本海を目指す。山梨、松本、糸魚川、富山・五箇山を抜け飛騨高山までの旅をする。多くの山越えから「旅こそ人生そのもの」と知る。(2010年12月21日、ブログ記事「伝」・・・魂のタイムトラベラー に、記載。 )

 27歳の夏、自転車の旅で青森県弘前市のねぷた団体「必殺ねぷた人」と出会う。(2008年7月31日、ブログ記事「平安神宮の風と夏の雲」に、記載。)           

28歳の年、仕事で知り合った京都市出身の女性(前妻)と結婚をする。ただし、新婚旅行先のグアムにて結婚指輪を海中で無くすだけでなく、食中毒にて緊急入院となり、当時、流行語となった「成田離婚」の一歩手前状態のスタートだった。前妻の実家は弁護士。その一族は皆、多種多才の人物がそろっており、私は仕事だけの「変り種」であった。

当時の私は「仕事人間」のまま結婚生活に突入した。「バブル景気」のすさまじい仕事量に追われた私は、29歳の暮れには仕事と家庭の両立を保てない状態となり、夫婦共に肉体的にも精神的にもボロボロとなったことは、生まれて初めて自分に対し「人の本当の幸せとは、なんなんだ!」という厳しい問い掛けをすることになった。翌年早々、私は上司と社長に「3ヶ月の充電期間」を申し出て了承を得た。ビジネス書を読み漁り、社員たちの仕事ぶりを観察する中で、私なりに「営業」の為すべき事の道筋を得て、春に復活するに到った。

1992年初頭、会社倒産となる。設立から12年で急成長を遂げ、ピーク時は東京都のトップにいた会社が、あっけ無く倒れた。「企業は、生き物だ。それも原始時代の恐竜だ。」と、感じた。前妻とは翌月別れた。お互いに自分らしく生きるためである。私はこの離婚を「マルイチ」としか言ったことがない。私が、すべてに於いて前妻に本心を語ったと、「言い切れない」ところに、この離婚の本当の原因があると、私は思う。

会社倒産後、仕事で知り合った演劇の世界に生きる人々との交流が深まるにつれ、「人は、何のために働いているのか」ということを、考える事となった。彼らは、「自らの夢」のため、「自分の本当にやりたいこと」のために、働いていたのだった。彼らの殆んどは現在も演劇を続け、中には声優スクールを開設している方たちもいる。

バブル景気の中頃、知り合った「役者」に、あのアクターズスクールでメソッドを学び、「黒澤明監督の秘ぞっ子」と期待され、のちにハリウッド映画にも出演した藤原稔三氏がいる。彼は、現在も現役の役者として、また関東・関西にて後進の指導に幅広く活躍している。赤坂・シアターVで見た、今井雅之・脚本「ウインズ・オブ・ゴッド」での、彼の光る演技は今でも忘れられない。

倒産による失業は、私の人生に於いて大きな転換期を齎した。長年の仕事のキャリアと働き盛りの年齢に、営業マンとしてのお誘いの声が続いたが、私は「人生に於いてこんな機会は仲々ない。せめて、一年間はじっくり生きる時間にしたい」と考え、そのままお断りの言葉にしたのである。「チャンス!・・・である」

 私は、自分に対し「お前の夢とは?お前の本当にやりたいことは何だ!」と問い掛けた。そして、リストアップを開始し、優先順位、予算組み、実行に移す期限を自ら設定し、行動を開始した。会社倒産まで、私を取り巻いていた「多くの仕事と売り上げのノルマ」は突然消え去ったのである。更には、守るべき「家族・家庭」すらも消えたのである。

今度は自ら自分に「自分で創ったノルマ」を課し、そのノルマを達成すべくサラリーマン時代に身に着けた作業処理のノウハウを、今度は自分のために使ったのである。この時、書き出した「やりたいことリスト」をチェックすると、なんと5年先の夏までスケジュールが埋まってしまった。初年度のノルマは、85パーセント達成となり、以後、毎年1月にノルマの確認と更新を続けることとなった。

1992年の春から、幾ばかりかの貯えと失業手当を元手に、ハンググライダーを習い始める。ハンググライダーを始めた理由は、空を飛ぶ事へのあこがれだけでなく、鹿児島の郷里にある「紫尾山」にフライトエリアをつくる夢のためだった。ハング・スクールは、静岡県・朝霧高原にホームエリアを持つ、「怪鳥倶楽部」だった。当時、校長の西本久平氏は「ひとり一人のタイプに合わせた教え方」に秀でた指導員で、私の取り組む「フライトエリアの夢」への、良き理解者でもあった。

 8月、車の屋根に自転車を載せて、東北地方を旅する。この夏から「必殺ねぷた人」参加を再開。ねぷた小屋の子供たちが、私につけたニックネームは、「ジャッキー」だった。

ねぷた祭りの先輩に「貰い風呂に行こう」と誘われたのが縁で、岩木山・山麓の民宿「ぶなこ食堂」の主人・秋田幸宏氏と出会う。彼は、スキーヤー・イベントプロデューサー・写真家・映像作家・造形作家の顔を持ち、なんとハンググライダーによる「岩木山の親分」であった。スーパーマンである。以後、「ぶなこ食堂」は祭りの疲れを執る定宿となった。

 ねぷた祭りを終え、自転車にて十和田湖を一周した。飛び込みで決まった十和田湖・休屋の民宿「春山荘」の方々のもてなしと、旅人たちとのうれしい出逢いから、以後「定宿」になった。(因みに、2010年・夏、北海道の東北部に位置する「弟子屈」に深夜到着し、知人宅にて一泊した。翌朝、私は驚愕した。私が正面玄関の外にて見た家なみと街路樹を含む道路の光景とは、十和田湖の「春山荘」の外にて見慣れた光景であり、なんと振り向いた知人宅の正面玄関さえも、「春山荘」の正面玄関のたたずまいであった。笑うしかない現実。そして一か月後、私は数年ぶりに「春山荘」を訪れ美人女将にこの話を打ち明けた。この女将の笑顔の雰囲気は、妻・幸子と「なんとなく」共通しており、旧姓も同じであった。「道理でね・・・・そういうご縁になっていたわけか」である。)

再び、1992年のお盆を過ぎた頃、十和田湖を経て岩手県の陸中海岸を自転車にて走った。途中、「普代村」の15メートルの高さを誇る「ダムの如き防波堤」の上に登り、太平洋を眺めたのちに内陸の集落に目を移した。聞き覚えのある宿の看板の付いた建物の裏手の高台に保育所の庭が見え、四人の幼子と遊ぶ母親らしき「女性」の姿が微かに見えていた。3年後に、その「女性」が学生時代の終わりに出逢い別れた彼女だったと判明した。

10月から、イベント美術のフリーコーディネーターとして、活動を始める。フリーになった理由は、会社という枠に囚われず、「ハンググライダーの夢」と「ねぷた祭り」と「旅すること」を、続けるためだった。

 フリーの活動は、経済面で善いときも、すさまじく苦しい時もあったが、電気・テレヒ・舞台照明・職人・現場監督・営業といったそれまでの経験が、無駄なく活かされる事になったのである。(2008年9月13日、ブログ記事「高瀬川に誠の風が吹く」に記載 )

1996年の夏、私は光源がすべてローソクの「扇ねぷた」を造り、翌年からは10年に及ぶ「必殺」の若き絵師・チャロこと中川俊一氏のつくる「組ねぷた」の台座造りが始まった。このねぷた造りが、ねぷた絵師・三上真輝氏をはじめとする青森県五所川原市の人々との出会いと、「立佞武多」運行参加につながったのである。三上真輝氏は現在、九州・博多を中心にランタン・アーティストとして、国内・外で活躍中である。さらに、青森県主催の「立佞武多」の東京ドーム・出陣イベントが縁で、黒石市に日本最長の登り窯をつくり三筋工房・烏城焼のブランドで、活躍中の陶芸家・今井理桂氏との出会いとなった。 

「必殺ねぷた人」でのねぷた造りは、全くのギャラなし持ち出しであったが、「楽しさ」と「遊びの中にある仕事以上の厳しさ」と「子供にプロの技をいかに教えるか」を学ぶことにより、さらに私のフリーコーディネーターとしてのスキルアップとなった。「必殺ねぷた人」への参加と、「本業」の相乗効果が、私の「三つの柱」を支え続けてくれたのである。

 1994年3月、念願のハング・パイロツトの資格を取った私は、フライトエリアをつくる夢のため、日本各地で既にフライトエリアを作った男たちを訪ねた。彼らのエリア開発での苦労話を聞く事は、私の確かな財産となった。また、ハングの大会へも参加した。

私は、1999年の冬までに郷里の「紫尾山」を、三度くまなく調査した。そして、断念した。理由は、山の高さ・風の流れ・離陸の条件は問題なかった。着陸に使える広い所も幾つもあった。しかし、予想以上に山が深く、どの着陸地点も微妙な距離があり、「誰もが安全に楽しむエリア」の観点からは、リスクが高かった。致命的なことは、山の中腹を高圧線が長く横切ったことだった。永年の「夢」は終わったが、後悔はなかった。

このハンググライダーの旅は、日本各地のフライトエリアの多くのフライヤー達との出会いと、様々な環境下での「離陸」と「着陸」において、私に技と適応力と「風をよむ」力を、もたらしてくれた。そして、幾度も私の「いのち」を守ってくれたのだ。そんな私を、師・西本久平は「修行僧のようだ」と、また「諸刃の剣だ」とも言った。このハンググライダーで、私が身に着けた「危機管理能力」は、ねぷた祭りでも仕事でも活かされることになった。「やばいニオイに鼻が利く」というやつである。 

1995年3月、朝霧高原にて、NHKの番組ハンググライダー教室ロケに指導員として参加。出演したタレントに「ぐっさん」こと、山口智充がいる。カラオケでの、彼のモノマネは、すでに当時から素晴らしいものだった。彼は、ハングのセンスもありロケ後も練習を続けたならば、パイロット資格を取れる人だった。彼は何事にも、真剣に取り組む姿勢と根性を持っていた。数年後始まる彼の活躍は、私の予想通りであり、それ以上でもあった。3週間のロケ中、ロケ地から2キロ離れたところに、オウム真理教の本部があった。地下鉄サリン事件の直後、ロケ地・朝霧高原の上空には、11機のヘリが飛び交っていた。テレビのヒーロー物の着せ替えフライトや、テレビ番組の空撮のフライトをしたのも、この頃のことだった。

1998年の夏、「必殺ねぷた人」への参加を含む2か月間の旅をする。青森・秋田・岩手・山形・長野・四国の後、九州地方が台風上陸のため、山口県から出雲を経て中学時代に好きだった戦国武将・山中鹿之介ゆかりの地「月山冨田城祉」を訪れた。

日本海沿いを秋田県北部まで北上しながら、「毎日、日本海に沈む夕陽を見る旅」をするという目標を果たす。旧友との再会と新しい出逢いを得る旅であった。様々な人から「自由で、いいですね」という声と、「そんな生き方は、嫌われるよ」という声を受ける旅でもあった。人は他人のある一つの行動・生き方に対して、自分の物差しで「善し、悪し」を語っているに過ぎず、その言葉は私のモノではなかった。この旅による最大の収穫は、「自由」のすぐ裏側には、いつもぴったりと「不自由」が張り付いており、この社会には「本当の自由がない」という事実を覚えたことだった。(2008年8月14日、ブログ記事「根無し草の夏休み」に記載。)

 1998年11月、長旅から戻った私は本拠地の朝霧高原にて、アメリカ帰りの女性ハングフライヤーのナオミと出会い同棲生活を始める。2000年の初夏、3週間アメリカのアリゾナ州にて過ごし現地のフライヤーたちと大空を飛んだ。かつてナオミの婚約者だったジェームスと彼の友人の住居にて宿泊し、彼らの案内でグランドキャニオンの上流にある秘境「パリーアキャニオンの地底」を四日間歩き回った。現地の仲間と「風向きと天気」の情報交換をしながら、クレーター、フラッグスタッフ、ミラー、フェニックス、ツーソン、ミンガス、ジェローム、セドナを訪れ、モニュメントバレーの観光ガイドを依頼したインディアンの男性から、「タクミって、俺よりインディアンみたいだな」と。

 1999年の夏、二人で「必殺ねぷた人」参加を含む、東北地方のハングの旅をする。婚約まではしたが、どうしても譲れないお互いの「生き方」の違いを認め合えたのち、それぞれが自らの目標に進むべく2002年に別れた。彼女は精力的に日米間を動き、アメリカ人のハングフライヤーの重鎮「ピーター・グレイ」と結婚した。翌年、私は来日した彼女とピーターを成田で出迎え、友人として関わることなった。

2008年の春、彼女のグラフィックの才能が、米国で高い評価を受けた知らせは私が望んだ彼女の姿であった。彼女と同棲生活を始めた当初、私に突然去来した信じ難い未来の映像を基に、「あなたは、やがて日本ではなく海外で成功する。でもね、その時、私は遠く離れた日本であなたの成功を知り喜んでいる」と、話していたのである。「わかっていた」

彼女の口癖の「失うものは、何もない」とは、父親ゆずりだった。「コトサラ」に口にするのは、一般的に「失うことへの恐れ」である。だが、彼女の父は戦後の日本で「裸一貫」からのし上り、「昭和の快男児」と呼ばれ、海外では「ブルドッグ」の異名を持つ、起業家だった。一文無しの状態で自分の結婚式をホテル・オークラと新聞社の広告をタイアップさせることに使い、日本のホテルを使った「ブライダルフェアの第1号」になった豪傑である。地価高騰を予見し、不動産業に参入。日本の不動産王として2年連続で君臨した。ただし、「地上げ屋」が大きな社会問題になる遙か以前の段階で撤退し、ゴルフ場開発を手掛け、海外ではオーストラリアの西部パースにゴルフ場とコンベンション会場を完備したホテルを建てる。自民党政権の全盛期に於いては「政治資金の調達会社」を設立したメンバーの一人である。何より、測量により「日本全図」を完成させた伊能忠敬の末裔である。 

国内をハングで旅する中で、私の一番のお気に入りの空は、岩手県・遠野のフライトエリアだった。1995年の夏から2007年の夏まで、遠野の空を飛ばない年はなかった。私がまだハングの練習生の時である。東北地方の旅にて遠野を訪れた。昔ながらの、のどかな風景に懐かしさを覚えた。そして空を見上げ、「この風景を空から眺めたい」と思った。

 2005年春、ハンググライダーの日本選手権大会が、遠野フライトエリアにて開かれた。大会のポスター、パンフレット、ホームページには、ひとりテイクオフに構えた私の姿と、私の真剣な顔があった。私は選手ではなく、大会役員として参加。選手の前に飛び、風を見るダミーフライトを担当した。私は役目柄、大会中いちばん多くフライトすることになった。お世話になった遠野への、私に出来る恩返しの思いだった。この大会による遠野の本多市長との出会いは、2007年の夏の旅での再会へと繋がった。因みに、私のトレードマークは首に巻いたバンダナであり、毎年遠野に現れたかと思ったら、数日後には去っていく旅人であったことから、遠野エリアの仲間たちは長年、私の事を「仮面ライダー」と呼んでいた。

私の岩手県・遠野への移住の思いは、この2003年から始まり、遠野を訪れるたび感じる「不思議な懐かしさ(霊的体験)」から岩手の歴史を調べ始め、「前九年の役」にたどり着き、更に調べ続けたのちに、「なぜ、この地にこれほど足を運ぶのか。感じた懐かしさは何処からなのか」という謎解きを始める。2006年の春、私なりに歴史の中から安倍氏の末裔・安倍仲任が九州・大宰府より薩摩国(鹿児島)へと渡っていたことから、魂レベルに発展する「ひとつの答え」を導きだし、完結を迎えた。東北地方の友人らも「なるほど!」となった。

 2005年の夏、遠野フライトエリアにて、女性パラ・フライヤーの幸子と出会う。岩手と東京の遠距離交際を経たのち、翌年4月に東京にて結婚する。桜咲く5月の遠野にて、遠野の空の仲間たちが集い「祝いの宴」を設けてくれた。当時の私は、結婚前から数年後には岩手に住むことを決意していた。

2006年の夏、妻と「必殺ねぷた人」への参加を含む、東北地方の旅をする。( 私の妻の「幸子・ゆきこ」という名の由来は、真田幸村ファンの義父によるものである。) 

当時の私は、フリーの立場を保ったまま2003年2月より、東京・浅草橋のイベント会社と契約を交わしていた。発注業務と現場管理に加え、社内の若者たちの教育係であった。岩手への移住を考えていた私には、東京にいる間に自分のイベント業界で身に着けたスキルを最大限活かしたい思いと、自分のノウハウのすべてを、出来る限り多くの若者たちに渡したいという思いがあった。契約は、その思いが叶うだけでなく、ねぷた祭りを含む夏の旅・一ヶ月の夏休みを認めるものだった。ハンググライダーのフライトは、年々少なくなったが、その事が妻との結婚資金のもとになった。 

数々の現場をこなす中、私が社内で始めた事は、自分と社員たちの現場で起きたことを話すことだった。「うまくいった事」も「恥ずかしい失敗」も、本人が公表するしないに関わらず、みんなが居る時に「バラシタ」のである。情報の共有が、社員全体のレベルアップはもちろん、会社の収益アップに繋がると考えたからである。ただし、情報を活かすか、活かさないかの選択は個人に委ねた。この考え方は、ハンググライダーの中で培ったことだった。ハングの世界では、仲間同士のフライト技術のレベルアップに繋がるだけでなく、時には怪我だけでは済まないフライト事故による仲間の命を守るためだった。

 この年の12月、東京・浜松町での長谷章宏氏のセミナーに参加する。セミナー参加の理由は、長谷氏の書いた本を永年読み続けていた妻の言動が、今ひとつ理解出来なかった。私は妻が、「何やら変な宗教にでも、引っかかっているのかな?」の思いから、「自分の目で確認しょう」と行動に移したのである。セミナーに参加した私は、長谷章宏氏が「変な宗教家」どころか宗教でもなく、極普通・まっとうな考え方を述べているだけの人だと理解した。私の目に「変だな」と映ったのは、長谷章宏氏ではなくこの時のセミナーに参加している「読者たちの方」であった。セミナー後、私と妻にとってなにより喜ばしい変化は、お互いを理解していくために必要な「歩み寄り」をもたらし、結婚以来たびたび二人の間で起こっていたトラブルの、解消の方向へ進む「きっかけ」になったことだった。

 2007年の夏は、私に「ねぷた祭りのない夏」となった。8月中旬から1ヵ月の夏休みを取り、岩手への移住のため盛岡市を中心に、東北6県を走り回り各地のイベント業界から舞台・テレビに関わる市場調査を繰り広げた。各地のイベントにも足を運び、地元企業の方と会って話を聞くことで、東京と地方との景気の格差をハッキリと見ることが出来た。正直、近年にない「不安」の中、私が移住先で「フリーコーディネーター」として稼げるかは五分五分であり、後は私の「やる気」と「やりかた次第」なのだと思った。東京に戻ると、これまでの知り合いの会社を訪ね移住後、彼らの東北地方での仕事を「私にさせて欲しい」と協力を求めた。どこからも、笑顔で「うれしい返事」を貰うことが出来た。もちろん、契約中の会社にも話しをし、この調査で入手した各地の会場資料を渡した。見学させてもらった会場の方との約束だったのである。

 2007年10月中旬、千葉市幕張にて長谷章宏氏のプロジェクトメンバーの幹部である八木信弘氏がセミナーを開催する情報を妻から得た。私の胸にふつふつと「また、あの長谷氏に会ってみたい!」という思いが起こり、「もしかしたら、会えるかも」という期待から、参加を決めた。当日、単独でセミナー会場に向かう私に「不可解な現象」が起こった。会場まで100メートルかと思われるあたりで、私の前方から「まさか、長谷章宏?」と思える長い髪と髭を湛えた一人の長身の男性が歩いて来た。その男性は大きめのギターケースを抱え、ジーンズの上下の「いでたち」だったが、その風貌と雰囲気はどう見ても「あの、長谷章宏か」と思わんばかりであった。私の胸中は、すれ違うだけの一瞬の再会だとしても、ワクワクどきどきの状態となっていた。訪れた事実は「年若い長谷章宏」=「別人(別な人生の長谷章宏)」であったが、4年以上時を経た今日に至っても、すれ違う瞬間の記憶映像は鮮明である。この現象とは、一般的に「パラレルワールド」と呼ばれている。会場にてセミナーが終了した後、実際に会場を訪れていた長谷章宏氏と再会することができ目的が叶った「うれしさ」という想いは、一瞬にして消し飛ぶこととなった。「あなたは、なんでまだここにいるの?で、何してんの?何をしに来たの?」という長谷章宏氏からの問いかけが私に向けられたとき、私は素直に「長谷さんと会いたかったから来た」と言えなくなっていた。返答に困った私は、逆に「なんでそんなことを聞くんですか?」「妻が残るっていうから、自分も・・・ふつうでしょ?」という具合の言葉ばかりを口にする状態になっていた。長谷氏は、私の本心を見抜いていたが、私は自分の本心を忘れてしまっていた。それは、私が人生に於いて「自分の本心を隠し、幾重にも誤魔化す」という癖を持ち、やがて自動操縦といえるレベルの「誤魔化しのテクニック」を身に付けたために、自分でも気づかない域に達していた。この事実が長谷氏との問答によって、露呈することになり、私は観念して「そうだよ、俺はずっと、誤魔化して生きてきた」と、その事実を認めたのである。それは、私自身の口から出た「答え」だった。この体験が、私が「素直な自分」「素直に話す自分」に戻るための「きっかけ」となった。

幕張駅へ向かう帰り道、とつぜん私は長谷章宏氏を「本物」だと感じ、私と並んで歩く彼に、長い間私が知りたかった事を尋ねた。またしても「答え」は私の口から「まさか」の台詞のあとに出た。このとき、「自分の真実」を知る。

 私は、それまで自分の生きてきた路は「曲がりくねった道」だと思っていた。しかし、振り向いてみると実は「すぱっと幅の広い真っ直ぐな一本道」だった。つまり、私の「本当にやるべき本当の仕事」をやるために、歩いた道だった。2008年1月、自分のやりたい「本当の仕事」に、気づいた。それは、「世直し」だった。

東京・浅草橋のイベント会社との契約は1月末までだった。契約期日のギリギリまで、私は自分が若者たちへ渡せられるモノは、すべて渡し続けた。「目的のために、自分に出来ることを考え、何をしたのか、何故そうしたのか、そしてどうなったのか」仕事に対する姿勢を伝え続けた。

 2月、妻・幸子と共に京都に移住する。京都を選んだ理由は、この地が日本の中心であり、今でもあらゆるものがこの地から発信されているからである。 

2008年4月1日 京都にて「TLC匠」設立。代表に着任。生き方のサポート、トータルライフコーディネーターとして、活動を開始する。(2008年6月16日、ブログ記事「Hさんからの電話」に、記載。)活動メンバーと共に、セミナーと個人セッション、街頭活動「聞く屋」による悩み事相談、京都市内の大学及び学生らと交流を持つ。(2008年7月以降のブログ記事に記載。)

想いのままに生きた人生の節々にて、幾度も体験した霊的世界のメカニズムの解明と理解が始まり、過去に起きた「不可思議な体験」の謎が解き明かされ、魂レベルの覚性へと繋がる。

私の人生とは、「あるがままの人生」である。

出逢いと体験には「偶然・たまたま・こじつけ」といった言葉の余地はなく、必然だらけのレベルであるが故に、私は「あたりまえ」という表現を用いている。

これが、私の体験による「答え」である。

カテゴリー: 未分類   パーマリンク

コメントは受け付けていません。