TLC匠 ながやま ゆきこ の ページへようこそ。

中学2年のある帰り道、ふと湧きあがった問い。「 私は、何のために生きているのだろう・・・・?  なぜ、ココに存在しているのだろう・・・・? 」
それまで感じたことのない妙な感覚だった。当時は、その問いを頭の片隅に押しやった。 が、今思えば、その後の人生は、その「答え」を探す道だったと言える。

高校2年の頃から、私は、いつ、どこで、誰と居ても、何をしていても、違和感があり続けた。どこに居ても、居場所がなかった。心がいつも不安定で、「死」を思い、「死」(自殺)に向かう状態が続いた。母に半ば騙し討ちのように連れて行かれた霊能者、初めて触れた霊能者の話は、死神が命を奪おうとしているとかガラスのような心だとか、夢物語のようだった。30歳を過ぎて、精神世界にその「答え」を求めた。幾人かの精神世界の本を読み、気功師、ヒーラー、新興宗教、自然農法など、様々な人と出会い、会話をし、セミナーに出かけたが、どれも直ぐに違うと感じた。日月神示を読んで、完全玄米菜食を始めたが、4年経った頃、何も改善しないばかりか、新たな病気を患った。完全菜食は間違いだった。始めてからずっと、身体が軽くなったと喜び勇んでやっていたが、間違いと分かった時、感じていた思いとは裏腹に、小さく縮こまってガチガチの、ギスギスした自分の姿があった。

そんな中、1997年、私の運命を大きく変えていく一冊の本に出会う。長谷章宏氏の著書、「西暦2000年ミロクの世が開かれる」だった。読み始めから息苦しさを感じ、読み終えたときは、身動き一つ取れず、言葉を失い、息が止まるほどの衝撃を受けた。
「本物だ。とうとう本物に出会った。」、真実に湧きたつ思い、と同時に、自分が今まで真実に背く、真逆の生き方をし続けて来た事実に、凄まじい恐怖が襲った。
「今の生活」を続けることも、「本来の生き方」に変えることも、どちらも怖かった。究極の選択に、「本来の生き方」を100%選択できないまま、ずるずると「今の生活」を続けた。知ったことは、消せない。それからの10年、本(真実)を遠ざけていても、折に触れ向き合う時が訪れ、その都度、真実と今の自分の狭間で気が狂いそうになった。その一方で、現実社会で、通称「長谷本」は、様々な困難から折れそうになる自分の支えとなった。結果として、自分に都合よく利用したのだった。

2006年12月30日、初めて長谷章宏氏のセミナーに参加した。翌2007年8月下旬、再度セミナーに参加した後、既に活動していた東京のメンバーに加わった。週末に集まって話したり、セミナーを開催したりした。、その年の年末、夫の永山拓美と共に、長谷章宏氏の自宅を尋ねた。今更ながら、安易な立ち位置で活動する自分のいい加減さを思い知った。翌2008年2月、京都に移住、4月にTLC匠を仲間と共に立ち上げる。
この時の思いは、世の中の誰も動き出さないのは、「真実」を知らないからで、動き出す誰かや、大きなうねりとなるのを待つのではなく、私が動くことなんだというものだった。あれから、3年4カ月、今思うと、当時は何にも分かっていなかった。

みんな、ひとりひとりが違う世界に居て、その人の世界にはその人しか存在していない。そのひとりひとりの世界が、重なりあって、「現実」と言う世界が作り出されている。本当は、ひとりひとり違う世界に居るのに、互いに姿形が見えるし、言葉も交わせて、触れもするから、「現実」が同じ一つの世界だと思い込み、皆が一緒の世界に居ると勘違いしている。

「真実」は、唯一無二の宇宙の理(ことわり)。ひとりひとりが、「真実」に従い、自分の事実に正直に素直に生きることが、私達ひとりひとりの本当の生き方なのだと思う。

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永山幸子のプロフィール

青森県青森市生まれ 49歳。

父は公務員で、母と、一つ年上の姉の四人家族。私が幼稚園の頃から母は働きに出掛け、当時は数少ない共働きの家だった。 

私にとって、父は恐怖の存在だった。箸の上げ下げから言葉づかいまで、生活の全てに父の恐怖的な躾があった。近所の人からは、スパルタ教育の家と呼ばれた。父は絶対だった。様々なことで容赦なく怒鳴られ殴られた。「なんで・・」の一言は、さらに父の拳を受けることとなった。叱られながら、納得いかない思いを解消する場はなかった。いつ怒鳴られるか、いつ殴られるかと、父と居る時は、恐怖で身体の芯がいつもビクビク震えていたのを今も鮮明に記憶している。それは、父が大声で笑っているときでさえもだった。その一方で、私が風邪などで熱を出したりすると、母以上に看病する父が居た。休日はよく、家族一緒にデパートに出掛け、屋上の遊戯場でいつも遊ばせてくれた。車であちこちの名所や観光地にもずいぶん連れて行ってくれた。 

両親を始め周りの人からは元気で活発な子供に見られていた。毎日外で元気に遊びまわり、男の子と間違えられることもしょっちゅうだった。姉妹喧嘩も甚だしく、ほぼ毎日何度も喧嘩していた。学校では、級友と喧嘩騒ぎを起こしては、担任が家を訪ねて来た。(母が玄関先で追い返していたらしい。) 道徳の授業時間などは、いつも少数派(一人の時もあった)で、多数派と論戦となった。けれど、意見を譲ったり、人の意見に合わせることはしなかった。小学校の通信簿には、六年を通して、協調性がない、落ち着きがないと書かれ続けた。
小学校3年の夏休み、父の転勤で宮城県古川市に移り住み3年間を過ごす。小学校6年の夏休み、父を残し、母と姉の三人で岩手県盛岡市の祖父の家に移り住んだ。両親が私たちの高校受験を考えてのことだった。父と別居することに正直ほっとした。
盛岡の小学校では数か月いじめに遭い、一度だけ母に泣いて訴えた。励ましてくれた母の言葉は「そんなことする連中はそれだけの人間。勉強で勝て、勉強で。」だった。それからは、その言葉を胸に耐えた。そんなこともあってか、中学に上がる時、中学に行ったら自己主張を控えることを心に決めた。それまで考えたこともない協調性を意識するようになった。

中学時代は、学校の勉強がとても面白かった。問題集を解いたり教科書を読んだりするのがとても好きだった。テレビにも音楽にも興味は湧かず、周りからは真面目ながり勉と言われた。その甲斐あってか、中学入学当初2と3だけの通信簿だったが、進学高校に進んだ。

高校では、最初の試験で古文で赤点、補習を経験したが、二年には真ん中ら辺だった。化学部に所属し、毎日、実験そっちのけで、部員仲間と遊んでいた。その日々は突然終わりを告げた。高校二年の一泊二日の遠足だった。同室の女生徒に誘われるまま男子部屋に行き、コークハイを酒と知らずに飲んだ。当時の私には到底考えられない行為だった。酔いから醒めるに従い、恐ろしいほどの後悔に襲われ、どうしていいか分からないでいた翌日、私を誘った女子生徒全員に学校にバレるのは私のせいだと責められた。その日、学校で飛び降り未遂騒ぎを起こし、私は学校から追放された。
岩泉の高校に転校して、レベルの違いにショックを受けた。大学受験への不安が募った。立て直したいと思う一方で、境遇を受け入れられず、立て直せないでいた。生きる価値も意味も見い出せず、夜はタバコやお酒、夜遊びに逃げていた。両親に夜遊びが発覚した時、改めて自分の弱さに絶望した。そして二度目の自殺騒ぎ、休学。両親は、同級生が卒業する同時期に、私の退学届を提出した。私は一切知らなかった。聞いた時は、かなりショックだった。
休学後は、暫く祖父の家に居たが、母から言われ盛岡市内で一人暮らしを始めた。父とは一連のことから不和となり一切の行き来が途絶えたが、23歳の時、姉の結婚がきっかけで行き来するようになる。

 休学中に社会に出た。初めてした仕事が喫茶店のウエートレスだった。その後、ちゃんと働こうと、面接のイロハも社会のことも知らずに就職活動したが、結果は10社以上立て続けに落ちた。複数の面接官から「高校(休学)中退は、中途半端な人間と見られ、採用は難しいですよ。」と言われ、高校を卒業することを決意。叔父の紹介で神社の巫女兼事務員として働きながら、1年掛けて通信制高校を卒業する。卒業後も面接官からは、学歴の部分を指摘されて採用に至らない。どこでもいいやという思いで就職した夫婦経営の小さな化粧品販売会社は、仕事に興味が持てず、夫婦の自宅の炊事や掃除までさせることも嫌で辞めた。その後、履歴書には、退学を編入と書いた。大手サラ金の事務、出版会社の広告の営業、小さなサラ金の事務と、転職を続け、中堅のサラ金に転職して三週間経った頃、編入と書いたことを理由に解雇された。
学歴不問の求人先を探し、金融商品販売会社のテレフォンアポインターとして就職した。何ヶ月かして生活のリズムが出来てきた頃、営業転属か解雇かと迫られ、やむなく営業となったが、数ヶ月後に知った社長の経営理念が受け入れられず退職。(退職後暫くして、この会社は詐欺会社として摘発される) 失業保険受給生活を経て、スナックのバイト、そして身上調査会社に就職、ここが4年越えの転職生活の終わりだった。そこを退職直後に、医療器械販売会社に事務の正社員として就職。22歳から再婚のため退職するまで21年間勤める。再婚後は、約半年専業主婦をした後、1年数か月、税理士事務所でパートとして週5日フルで働く。

10代で2度の同棲、様々な人との交際を経て、27歳で結婚、29歳でマイホーム新築、38歳で調停離婚。元夫とは今も親しいフライヤー仲間である。44歳で再婚、東京へ移住。趣味は、子供の頃から親しんでいるスキーと31歳から始めたパラグライダー、41歳の時の大怪我が長引き、今はどちらも復帰前。交通事故3回、泥棒被害1回。手足の骨折3回、脛骨にひび、足首の重傷捻挫などで入院3回。体のあちこちの不調もあって、診察券は20枚を超える。特に、アレルギー性皮膚病には8年間悩まされ、病院を転々とし、漢方薬や多数の民間療法を片っ端から行った。

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